河村城は、郭の配置などが近世の絵図にも残っており、また発掘調査により障子堀(しょうじぼり)や橋脚遺構、空堀、段切腰郭等が発見されています。
河村城を築いたとされる河村氏は、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の子、秀高が現在の山北の地を領し、河村を名乗ったことに始まると考えられています。
源氏と平氏による石橋山の合戦の際、河村秀高の子、義秀は平氏に味方したため領地を没収されてしまいますが、鎌倉で源頼朝に流鏑馬の妙技を披露し、本領河村郷に復帰できたと言われています。(『吾妻鏡』)
また、義秀の弟秀清は頼朝の奥州征伐に従い、戦功により岩手県に領地を得て、奥州河村氏の祖になったと考えられています。
建武の中興、新田氏の鎌倉攻めの時には、河村氏は波多野氏や松田氏とともに新田氏に味方して活躍します。しかし、その後の南北朝時代になると、畠山国清を主将とする北朝方の足利尊氏軍と戦火を交え、正平7~8(1352~53)年には河村秀国、秀経が南朝方の新田義興らとともに籠城しますが、「南原の戦い」に敗れてしまいます。(『太平記』)
その後は関東管領上杉氏、大森氏の持城となった時期を経て、最終的には小田原北条氏の武田氏に備えた出城として重要視されましたが、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、廃城になったと考えられています。
(山北町のホームページより)
↓障子堀
↓本城郭
雑誌でよく見てきた城跡ですが、訪れたのは初めてでした。波多野一族、相模の「山の武士団」系ですね。南朝方だとは思いませんでしたが・・・まだまだ知らないことがたくさんあります。
バードウォッチングにも良さそうな場所なのですが、鳴き声は聞こえても姿は見えず・・・冬かな。