丹沢山地to辺りde探検 byくさしなととろ

相模國酒馬間で探検しながらダイエットセラピー

大庭塚

左の説明板には

大庭塚の跡 豊田の郷は、大庭景宗の次男豊田次郎景俊が領した地である。 この地に大庭塚がかってあった。塚は『吾妻鏡』の文治四年(1188)11月27日に「(大庭)景能か父景宗の墳墓、相模国豊田の庄にあり」と記載されており、大庭景宗の墳墓と思われ、昔は相当の規模であったと想定される。 平塚市観光協会

と書いてあります。右の標示柱の脇には

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたころ、この辺りは豊田荘とよばれ、豊田五郎(次郎)景俊の所領でした。この大庭塚は、景俊の父である大庭景宗(景忠)の墳墓として伝えられています。

と書いてあります。

景能か父景宗の墳墓、を読んで、景能or景宗の墳墓?と思ったのですが、帰り道にハタと気づき、「景能が父、景宗」と云うことかな?濁点表記は吾妻鏡の時代には無いのね?

大庭(懐島)景義(景能)さんは茅ヶ崎市民になるのでしょうかね?竹宮恵子さんの漫画で奥州攻め決定のシーンが頭に浮かびます。鎌倉党の大庭御厨は川東なので、平塚市民の豊田景俊さんは御厨以外の土地を管理していたと云うことでしょうか。近隣の波多野氏との関係も結構あった模様です。豊田本郷というくらいですから多分近所に豊田さん家があったのでしょう。豊田館が。

旗揚げ戦で有名な大庭景親さんと俣野景久さんが平家方、大庭景義さんと豊田景俊さんが頼朝方と大庭一家は別れています。梶原さんも平家方だったので、鎌倉党の主流は平家方って事ですかね?

兄弟で敵味方。真田昌幸さんの登場を待つまでも無く、一族存続を考えたのかも知れないし、三浦一族とのご近所づきあいなんかを考えたのかも知れないし・・・大庭御厨の主導権争いなんて話も聞きましたけど。

 

 

膝のサポーターを初装着して歩いてみましたが、まぁまぁ具合よく歩けました。携帯を携帯せずに出かけたので、結構歩いたにもかかわらず距離は記録されず。帰りに見かけてしまった糖質の固まりを摂取して・・・美味しかったです、とても。